人気blogランキングへ
banner.png

2005年07月31日

形而上学


形而上学

アリストテレス

まさに哲学の原点とも言えるのがアリストテレスの「形而上学」でしょう。

「形而上学」という日本語は分かりにくいですが、「形ある自然を超えたものについての学問」という意味です。
原題は"metaphysika"、すなわち「自然学の後(超自然学)」ということらしいです。
要するに、自然学を越えたところにある真理について探ろうという学問で、後の哲学の源流と言えます。

特に「自然科学」が前提としている「物事の存在」に大きく焦点を当てています。

前提や自明のことを考えるのは非常に難しいです。
自明なのだから考える必要がないと言ってしまえばそれまでです。

しかし、人類の飛躍的進歩は前提を考え疑ったことから始まっています。
コペルニクスの地動説(天動説が前提)やアインシュタインの相対性理論(ニュートン力学が前提)、明治維新(幕府が前提)等、多くの事例が存在します。

アリストテレスのもっとも尊敬すべき点は、これらの事例や先人がいない状況で、自分の頭で考えたということです。
「考える」能力が圧倒的だからこそ、自然学にとどまらず、論理学、倫理学、哲学の基礎を確立し「万学の祖」となったのでしょう。

全ての学問、職業において、それぞれの専門知識はもちろん必要ですが、この「考える力」は欠かせません。
「考える力」はあらゆる分野で有効であるということをアリストテレスの実績が示しています。
すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する
posted by ミズモト at 00:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月23日

ソクラテスの弁明


ソクラテスの弁明・クリトン

プラトン

ソクラテスの法廷での自己表明には強い信念が感じられます。
物事と徹底的に突き詰めて考えて真理にたどり着いたという確信が見られます。

その真理とは、「無知の知」でした。

情報過多の現代にこそ、この「無知の知」を認識する必要性を感じます。
特にテレビは受身で情報が入ってきますが、これを知識と勘違いして考えることをやめてしまう傾向にあります。
意識的に行なう読書でさえ、時には考えずに済ませてしまうこともあります。
常に「無知の知」を意識して考え続けなければなりません。

さて、ソクラテスは信念を曲げずに死刑さえも受け入れます。
自ら見つけた真理を信じ、信念を貫く生き様には感動さえ覚えます。
強い信念、考え抜いて導き出した真理=哲学は時代を超えて共感を得られるという典型的なストーリーです。

「無知の知」を他人に説得してまわるソクラテスのやり方には賛同できません。
しかし、物事の本質を徹底的に探ろうとすることはどの時代でも有効です。

ソクラテスの弁明する姿を見て、徹底的に考えて真理にたどり着いたときに本当に強い信念が生まれるのだということを感じました。
posted by ミズモト at 11:29| Comment(3) | TrackBack(2) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月21日

弁論術


弁論術

アリストテレス

世界最古の弁論術に関する文献です。話し方や弁論については多くの書籍が出ていますが、2000年以上も前に弁論を「術」として整理したのはすごいことです。

まず最初に弁論術について定義することから始めています。
どんな場合でもそのそれぞれについて可能な説得の方法を見つけ出す能力
弁論術に限らず、本書での論理の展開の仕方は勉強になります。

1.テーマを掲げる
2.そのテーマに関する言葉について定義をする
3.その言葉を3つ程度に分類する
4.例をあげて説明する
5.例から仮説を立てて検証する
6.結論を立てる

現代はMBAの影響もあって論理的思考については学問として確立していますが、アリストテレスの時代に使いこなしていたのは驚きです。
アリストテレス自身が論理的思考を「弁論術」のように技術と捉えていただかどうかは分かりません。
(デカルトの『方法序説』が最初ではないかと思っているのですが...)

哲学や自然科学の分野で偉大な功績を残した人は、意識しているかどうかは別にして必ずこのような考え方をしています。
哲学者がどのような思考法を用いて論理展開をしているかを意識して読むことは、自分自身の思考に刺激を与えてくれて思考法のよい訓練になります。
posted by ミズモト at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月10日

方法序説


方法序説

デカルト

「われ思う、ゆえにわれあり」
デカルトのあまりにも有名な言葉です。
すべてを否定して物事を考えた結果、考えている「われ」がいることは否定できない真理だということですね。

高校生のころ、この言葉を習ったときは意味深だけど当たり前だなという程度の感想でした。
しかし、それから多くの経験を積み、この言葉の出自である本書を読んで、やっとデカルトの言わんとしていることが分かってきました。

デカルトは自然科学を研究していましたが、(現代では当たり前のことですが)その際に論理的な考え方が必要となることに気づきました。
論理的思考法を追求した結果、かの有名な真理に至ったということです。

現代ではクリティカル・シンキングとしてビジネススクールでも学問の対象として扱わていますが、300年以上前に論理的思考の有用性に気づき、シンプルで美しい最小限の言葉で表したのは芸術的とも言えます。
自然科学や芸術をはじめ、全ての学問は哲学の上にあるということを思い知りました。

デカルトは論理学を次の4つの規則にまとめてしまっています。非常にシンプルですが現代でも通用します。
第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。

第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。

第三は、わたしの思考を順序にしたがって導くこと。

そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。
物事は意外と単純な法則の上に成り立っているものです。
その法則を見つけ出し取り入れることが成功への道なのでしょうね。
posted by ミズモト at 00:54| Comment(1) | TrackBack(2) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月14日

読書について


読書について 他二篇

ショウペンハウエル

読書家にとって非常に耳の痛い言葉が出てきます。
読書とは他人にものを考えてもうらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。
単なる娯楽でなく、教養・成長のために本を読むものだと考えているため、読書に対して見直すきっかけになります。

悪書ではなく良書を読むこと。
読むのではなく考えること。
発言するのも考えた上で責任を持って行うこと。

私もなるべく古典を読むように心がけていますが、やはり本屋に平積みされているような流行の本に目を引かれがちです。もちろん良書も多いですが、見分けるのも難しいです。やはり定評のある古典を読むか、量をこなすしかないのでしょう。
ハウエル氏も多読について厳しい批評を展開していますが、多読を否定しているわけではありません。
さて体系的な思想かもまさにこの手続きをふむ。つまり思想化には多量の知識が材料として必要であり、そのため読書量も多量でなければならない。だがその精神ははなはだ強力で、そのすべてを消化し、同化して自分の思想体系に併合することができる。つまりその精神はたえず視界を拡大しながらも有機的な組織を失わない壮大な洞察力の支配下に、その材料をおくことができる。その際、思想家は自らの思索はパイプオルガンの基礎低音のように、すべての音の間をぬってたえず響きわたり、決して他の音によって打ち消されない。
大切なのは自分の頭で考えるということです。考え抜いた上で目的意識を持って本を読む。読んだ後にも考えて精神に取り入れる。実に耳が痛い話しですが、考える価値のあるテーマです。
多読家にとって必読の一冊です。
posted by ミズモト at 16:30| Comment(1) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。